横綱の歴史

相撲ファンとして、横綱について思うところを書いてみます。

 

大相撲における横綱

横綱は昔からあったわけではなく、江戸時代の相撲では大関が最高位。その大関の中で力量抜群の力士に対して称号として免許を与えていたのが横綱です。今の相撲だと横綱大関の上の地位の認識になると思いますが、歴史を考えると、やはり大関の中の別格力士が横綱となります。番付に初めて横綱が登場したのが明治時代。新米大関に正位を押し出された先輩大関の不満を抑えるために、張り出しになった先輩大関に対して「横綱」と番付に書いたのが最初だと言われています。それまでにも横綱免許を持つ大関はいましたが、あくまでも番付は大関。この時点で、横綱大関より明確に上という認識が徐々に拡大していきます。これ以降、横綱免許を受けた大関は番付に横綱として載ることになり、徐々に横綱の地位というのが確立していきます。これ以降、太平洋戦争が終わるまで、この状態が続きます。江戸時代には横綱免許を出す相撲司家は複数あったようですが、徐々に断絶していき、最後まで残るのが熊本の吉田司家です。江戸時代には、江戸・大阪・京都でそれぞれ相撲の興行が行われていました。今とは全く違う形式で、弱くても大名お抱えなら大関ということもあり、実力本位の今の相撲とは趣が違います。そんな感じで、それぞれの都市でそれぞれ行われていた相撲ですが、東京遷都で京都相撲が衰退します。大正時代に当時摂政だった昭和天皇東京相撲摂政賜杯を下賜し、東京相撲が皇室のお墨付きをもらったことになり、相撲団体は東京相撲に集約され、大日本相撲協会として日本全国の相撲を統括していくことになります。このことをもって近代相撲の幕開けとなります。が、横綱については相撲司家の免許という形式は変わっていませんでしたが、もはや明確に大関より横綱が上という認識は確固たるものになりました。が、今のように「大関で2場所連続優勝またはそれに準ずる成績」という基準もなく、横綱免許の基準はかなり適当な感じで運用されていた感じがします。(40代東富士までの昇進を確認してみると分かると思います)横綱が決定的に神格化されるのは、恐らく双葉山の69連勝だと思われます。双葉山の連勝が始まったのが昭和11年の関脇時代。ここから5場所連続全勝優勝で一気に横綱に。当然双葉山大関成績は全勝(大関通算全勝は恐らく双葉山のみ)、双葉山の連勝に伴って、11日だった本場所が13日になり、さらに人気が出たので15日になったという相関もあります。そういう風に近代相撲が発展していくのですが、太平洋戦争の戦況悪化に伴って、15日制が維持できなくなり、本場所の日数も削減されていき、敗戦となります。戦後相撲は徐々に復興しますが、戦後に最初に昇進したのが「前田山」。この横綱横綱昇進後、本場所を途中休場したその場所中に野球を見に行って引退させられるという失態を犯します。その後も現役横綱の不甲斐ない成績が続き、ついに相撲協会が相撲司家の免許を取り上げ、「横綱大関の上の地位であり、その推挙は相撲協会が行う」としたことで、完璧に横綱の地位が大関よりも上、と確定されました。この確定された地位こそが今の大相撲の横綱です。